ー1 朝から混乱の極みに陥れられました
優し気なタイトルに騙されて、朝からしんどい読書を強いられました、が、最近よく行われている「哲学対話」というワークショップなどの背景がわかりました。
「哲学対話」って、「だよねぇ~」という共感みたいなものを生むためにやっている、あったかいもの(ここが作者は疑わしい)と思っていたんですけど、<子ども>という言葉は実は考えることのストイックさを示しているということがだんだん本を読んでいるとわかってきます。
つまり、「哲学対話」の意図は、自分の哲学があるんだったら、他人を利用して、批判を受け、批判をぶち込めというアグレッシブな姿がまともな姿、ってことになるのかな・・・と。
決して楽しく読める本じゃないです。むしろ、半分読み飛ばしながら、読んだほうがいい。問答が多いので、全部は理解できないから。
ー2 それはそうとして、いくつか大事なフレーズを
・子どもの哲学:根本問題は「存在」。森羅万象そこにあることが納得いかない。其処に噛みつくこと。
・青年の哲学:根本問題は「人生」。哲学のイメージは日本ではここで作られてきた側面がある。生きることはだれしも変わらないのだから、その差は大したことはない。その点で、見せかけに過ぎない。
・おとなの哲学:根本問題は「世の中の仕組みをどうしたらいいか」。社会の中での行為の決定の仕方が問題で、倫理学やら、社会科学やら、そういった分化したもので価値の比較検討はできるようになるが、「存在」を問うこと自体はどこかに忘れ去られている。
・老人の哲学:究極主題は「死」である。「死」つうじて「存在」の問題にまた帰るが、青年、大人の時期を経ているだけに、純粋には取り組めない。
子どもに青年は、青年に大人は、大人に老人は、哲学に関する限りかなわない。それは、青年の哲学、大人の哲学、老人の哲学は文学、思想、宗教で代用できるが、子どもの哲学は代用が効かない。だから、<子ども>の哲学が最強!
ー3 思想を持てば、その分思考の力はおとろえる
物を考えつづけるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)をそのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも、ひとりでそれをやるのは難しい。自分に変わってそれをやってくれる人だけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが哲学上の友人なのだ。だから、真の友人を求める限り批判者を批判し続けなければならない。
・・・・「哲学対話」成り立たないじゃん!と思うが、それが<子ども>の哲学をわかってない、っていうことなんでしょうね。
ー4 ある限度を超えた善には悪のにおいがする。
これは、なんか、分かる。ニーチェはこういうことにムカついたので「神は死んだ」って言ったんですよね?ここは、マイケル・サンデル教授が得意なところだと思うのですが、偽善が内面化し、道徳にかわっていくとして、道徳って、いかがわしいよね、ってことになるわけですね。
ー5 哲学って祈りに似ている
人は、ふだん神の存在をしんじていようといまいと、祈らざるを得ないときは祈らざるを得ない。(祈るとは、その行為のうちに神の存在を信じることだろう。)
おなじように、哲学せざるを得ない人は哲学せざるを得ない。だから、その内容が無神論的であろうと、哲学する人はその行為のうち、「自分の神」の存在を信じるのではないか。
・・・・と最後に記してらっしゃいます。「自分の神」ってなんでしょうかね?。
ー6 結局一人で考えなきゃなんかい?
永井均先生のXのページをのぞきました。
世の中に、この人に絡もうとする人いるのかな、っておもってしまったので、マゾな私はフォローしてしまいましたが・・・。でもフォロワー3万人もいるんですね。
ずいぶん昔の日経の記事が、もしお話する場面があったら、こんな感じならいけるなとおもいましたので、リンク掲載していおきます。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG210AB_S3A121C1000000
Xで、これ読んでから文句あるなら言ってこい、と挑発されている本は下記。読破できる自信全くありませんが、ポチろうか迷っているマゾの自分がいます。レビューの評価が高いのは、それだけ感動した人がいるってことなのかしら?。
以上、今日の思考力をすべて奪われた朝読書の2時間でした。怖い怖い。でも、新しい世界にふれたような。